心構え

才と徳

人は気持ちで動く

「才」

 これは、頭が良い度合いを示す言葉でしょう。才が高ければ、頭がめぐり機転が利くイメージです。英語では「talent」。ギリシア・ローマ時代の金の単位でもありました。形容詞では「clever」。時にずる賢いの意味を含んでいます。皆それぞれに自分の尺度を持つ中、この尺度が自分になった人物を自己中心と言います。相手の気持ちを考慮できず、自分の尺度で物事を自分で決めるからです。

「徳」

 これは、心が良い度合いを示す言葉です。徳が高ければ、人を愛し、人に親切にする。人を助ける。恩を感じる。恥を知る。正義・忍耐・勇気を持つ。英語では「virtue」、天使と同等の5階級を示す言葉でもあります。近い意味では「smart」がある程度同様な意味を含んでいます。そしてこの尺度が判断の中心になった人物を「君子」「聖人」と考えます。

「才と徳」

 多くの人は皆この間のバランスで生活をし、比重が多少どちらかに偏っています。また、私生活と仕事の場でもバランスが変わるものです。ビジネスの世界では、競争世界であり、どうしても「才」比重が高い状態になります。なぜならば、即断即決が優位であり、そのときに多くの意見の集約を待てないからです。なお、これに独善が加わると「才走る」人となります。

「才走る」

 個人的には付き合えた人でも、仕事になると関わりが保てない「才走る」人と過去、いろいろ会ってきました。仕事上「才走る」人の特徴は、次のことです。
1、自分の権益が最優先。自分が得たと自分で決めた権益を絶対に譲らない。
2、自分の主張を守るためには、いかなる話も持ち出し、論点をすり替える。嘘までつく。
3、自分のことは棚に上げ、相手の問題を攻撃する。個人の尊厳領域すら踏み越える。
4、頭が良いので、その場をやりこめ、相手を誘導できたとこれまた自分で決めている。
つまり、徳が低く、自己中心です。

「人は気持ちで動く」

 才走り、言葉で打ち負かされた相手は、長期的には敵に回りやすく、結果「才走る」人は損します。また、「才」ある相手は、まともに相手をしなくなり、やがて「才走る」人の存在を忘れ去ります。それは「才走る」人と話をした後、誰もが気持ちが良くないからです。言葉に負けた人間には恨みを買い、賢い人間には私生活まで距離を置かれます。人は最後、気持ちで行動を決めるのです。これを大切にしない才の人は最終的に孤独です。

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四苦八苦

四苦八苦について

「四苦とは、生、老、病、死」
 人が生きるうえで逃れられない苦しみを四苦と呼ぶ。生まれる苦しみ。老いる苦しみ。病を得る苦しみ。そして絶対に避けることが出来ない死の苦しみ。誰もが平等に生まれ持っている苦しみだ。

「さらに四苦」
 これに、さらに四苦が加わると八苦。それは、愛する者と別れなければならない苦しみ「愛別離苦」(あいべつりく)。怨み憎む人と出会わなければならない苦しさ、さらに一緒に生活しなければならない苦しみ「怨憎会苦」(おんぞうえく)。求めても得られない苦しみ、さらに希望が達せられない苦しみ「求不得苦」(ぐふとっく)。人間生存自身の苦、視覚・認識などの心理作用で起こる苦しみ「五陰盛苦」(ごおんじょうく)。以上を四苦に加えて「八苦」と呼ぶ。

「怨憎会苦」
 学生が社会に出て最初に苦しむのは5番目の苦、「怨憎会苦」のはず。学生時代とは異なり、会社生活はそれまで過...ごした環境と大きく変化し、価値観の変化を味わう。まず、会社では年齢・出身地・経験について幅広い人との出会いがあり、出会いはプラスとマイナス同時に降りかかる。マイナス面では特に一緒に居たくない人と出会い、そして同じ場所・時間を共有せざるを得ない苦しみがきっとある。多分、早々転職理由のトップはこの苦しみと思う。

「怨憎会苦の対処方法」

 人は集団で生きる動物で必ずどこかの集団に帰属する。会社も当然集団であり、この集団に耐え難い苦がある。組織が大きいほど「怨憎会苦」は回避できない。が、嫌だと思う自分だけが自分で変えることが出来る対象だ。人は変わらない。自分が変われば嫌な人もすばらしい人に見える体験を積むことだ。こうして一人前の社会人になっていく。そして自分さえ変えれば、今ある悩み苦しみは日々時間とともにたわいもないことに変わることを体で知る。これが私が知った対処法である。

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克己

インドの神から

「破壊・創造・維持」

 神話の話から。インドの3大神は破壊がシヴァ神、創造がヴラフマー神、維持がヴィシュヌ神。これがセットされて人類は生きていると、インドでは昔から考えています。ヴィシュヌ神がうまく行かなくなると、シヴァ神が動き、そしてヴラフマー神が動く。維持された価値が破壊された後、創造をする。と過去の神話が語っています。

「動こう」

 「動こうとするとその方向が悪い方向に見える」という心理的な傾向を「ダウ&ワーラン効果」と言うようです。行き先が不明で予想が出来ないときは、精神衛生を悪くさせ、怖いと思う本能がひとには働くのだそうです。自分の本能に打ち勝つのは、己の信念か、信ずる人の言葉について行くことの2つ。行き先が見えないときは、考え動く人を信じて付いて動くか、己が動いて変えるしかないのです。

「考えること」

 日本人は個人の経済的豊かさを中心にし、人生の本当の豊かさを失いつつあるように感じています。皆、世間のレールに乗って、信じていないに関わらず、其処から外れないこと、つまり維持に疲れている。自分の頭で考え、体で動き日々の慣性破壊によって既存概念レールから離れる時期ではなかろうか。一端レールを離れ、自らレールを作るか、信じる新しいレールに乗る。しっかり考えよう。

「自分に言い聞かす」

 実は、自分が近年で最も苦しんでいる。だから、こんなことを書いて自分に活を入れているのです。克己。己に勝ちます。

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いのちへの感謝

いただきます。

「以前新聞で出ていた話」

 学校給食で毎日食事をする前に皆で「いただきます」をすることについて、ある親から学校にクレームが入りました。「給食費を払っているのに頂くとは何事か。即刻中止しろ。」というものです。これに対して学校側はそのご意見を組み入れ給食時に「いただきます」を唱和することをやめにしたそうです。

「人間の業を毎日確認」

 本来、お釈迦様の教えでは、自分が生きるために他の「いのち」を殺す、そして自分に取り入れる。自分が生きるため相手(動物や魚、植物など)の「いのち」を絶つ。これが「殺生」なのです。人は「殺生」を行い、相手の「いのち」をいただく。そうしないと人は生きていけない。だから心から相手の「いのち」に「本当に申し訳ない。」と念じ、「いただきます。」を唱えるのです。相手の「いのち」を絶つことでしか生きることが出来ない人間の業を毎日確認することが大切と教えています。

「いのちへの感謝」

 このような、生活においての基本的な「いのちへの感謝」を、学校が教えきれない不安があります。生活常識や文化の後退に怖いものを感じます。子供たちは自分の力で生きていると思い込み、傲慢になり、「いのち」に対して「やさしさ」を失ってきているのではないでしょうか。

「道徳」

 給食費未納問題も発生しているので、ここで提案します。教育は国の最も重要な事業と捉えています。高校までの給食費全て無料とし、そのかわり「いただきます」を必ず唱和することにする。そして道徳を向上させる。そうすれば日本の明るい未来が見える気がします。

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東日本大震災

明日、東日本大震災から2年

 早いもので明日11日、東日本大震災から2年です。亡くなった方、被災された方、家族を失った方、さらに家を失ったり、追われた方のことを思うと悲しみで万感尽きるものがあります。
心から黙祷をささげます。

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体罰と暴力

体罰の禁止について

「受け手の気持ち」

 子供の躾や指導において、体罰は必要な行為です。体罰を実施する人と、罰を受ける側に双方の信用・信頼があれば、大きな問題は起こりません。何事も行き過ぎが問題になるのです。自分自身、水泳部で、指導上よくビンタをくらっていました。弱い心を鍛えるには良い方法で有ったと今でも思っています。頭ではわからないことは体で教えることです。教育指導上、繰り返しますが、体罰は必要な行為です。

「羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く対応」

 最近の報道では、生徒と先生の双方の信用・信頼の気持ちの基準はなく、ただただ、教育現場での手出しの全面禁止を言います。体罰と暴力の境界は主観的で曖昧ゆえ難しい問題では有りますが、全部を禁止にすることはおかしい。羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹くではなく、なますに懲りてあつものをなくすになっています。少数の指導間違いで全てを禁止してはなりません。

「規定のムチで尻を叩く」

 自分自身、中学時代の水泳部は相当なスパルタ教育で有名でした。ビンタ、竹刀、顔に放水。色々な思い出が有りますが、教師への信頼があり、問題には成らなかったです。今体罰を規定するならば、叩く道具を規定し、イギリスの教育で使うムチのようなもので尻を叩く。これを提案します。

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平気で生きる

松原泰道住職の言葉

「平気で生きること それが禅なり」

 この言葉は、松原泰道住職の言葉です。この「平気で生きる」。成功している人たちは皆、それぞれに事情を抱え、それでいて平然と生きているものです。こうした思想を知っていれば、なにが有ってもも平然と過ごせるものになります。この「平気で生きる」と言う言葉を座右の銘にして、私は、日々暮らしています。

「つらいこと」

 今感じているつらいことは、もっとつらいことを経験すれば、つらいことではなくなります。つらいことの極限は老病死であり、人は必ず「死」を経験します。ただ、この私のつたない文章だけでは、何のために生きているかを掴むことは困難と思います。でも、いつも「死」の存在を認識し、そして生きていくことが出来れば、人は平然と暮らせると思います。

「日々、最大限の努力」

 人に与えられている可能性は、与えられた領域で「ベストを尽くす」ことです。ベストを尽くした結果がどうであっても、それはベストを尽くしたのです。日々、おっくうにならず、活動していれば、新しい場面が必ず開けてきます。このことは自分の経験で保証します。悪いことが起きれば、やれることをして酒をくらって寝てしまう、朝が来れば、その日から違うことがはじまるのです。良いことがあれば、酒で祝って寝て、また朝から努力を続ける。平気で生きてそれを続ける。これが、生きることと思います。

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教えることは学ぶこと

人に教える難しさ

「九徳を学ぶ」

 九徳とは、次の9つの行動指針です。1、寛にして栗(りつ);寛大だが、しまりがある。2、柔にして立(りつ);柔和であるが仕事はきちんと処理できる。3、愿(げん)にして恭;まじめで堅いが、丁寧で人当たりが良い。4、乱にして敬;問題を治める力を持っていながら、慎み深い。5擾(じょう)にして毅;おとなしいが、本質は強い。6、直にして温;率直ながら温和。7、簡にして廉;おおまかであるが、しっかりとしている。8、剛にして塞(そく);力が強く勇ましいが、内側の守りが堅い。9、彊(きょう)にして義;強くて押しがあるが義を尊ぶ(弱いものいじめをしない)。

「矛盾」

 九徳は言葉では矛盾しています。たとえば、1つ目の寛大であって厳しく締める。当然同時に実施は出来ません。これが人への教え方の基本となると感じます。場面によって、緩やかさと、瞬間的強さが1つの動きになる必要性を説いているのでしょう。9つ目にある指針、強い者は弱い者に力(言葉を含む)で強要しない。重要な考えです。矛盾ではないと思います。

「教育者の条件」

 長年の仕事は、日々の慣れや習慣で処理できますが、人に教えることはその経験や慣れが教えの場で邪魔をします。いつも当たり前でやっていることは相手にとっては当たり前ではなく、かつイメージできないことばかりなのです。相反することをバランスして事を進めていることを、納得させることはとても困難なことなのです。自らその暗黙のバランスの生業を理解し言葉で説明できねば、相手を理解・納得させることが出来ません。教える前に自分が学びまとめることが必要であり、これが仕事や経験を深いものに出来る道と思います。

「こんな先生いませんか」

 九徳と反対の人間像は以下のようなイメージです。1、せこせこうるさいくせに、しまりがない。2、とげとげしいくせに、仕事が出来ない。3、不真面目なくせに、尊大で取り付くしまがない。4、問題が治めれないくせに、態度が大きい。5、粗暴なくせに気が弱い。6、率直なものを言えないくせに、内心は冷酷である。7、こまごまと干渉するくせに、全体がつかめていない。8、見た目が弱く、中身もない。9、弱いくせに、悪人である。

「教えることは学ぶこと」

 私がいつも心に置いている考えです。人に教えることがもっとも重要な「勉強の場」と思います。

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日本の道徳

日本を良くしたい。

「トイレの後、手を洗わない人」

 最近男性トイレで小用を足した後、手を洗わない輩が目に付きます。昔すごい友人と一緒にトイレに入りました。彼はトイレに入るなり石鹸で丁寧に手を洗い、その後に用足し、そしてそのままトイレから出て行ってしまいました。後でその理由を聞いたら「外でいろいろなものを触り手が汚れているだろう。汚い手で自分の大事なものを触れることは出来ない。」私は驚いて聞き返しました。「ではその後手を洗わないのはなぜか?相手に失礼だろう。」その人曰く、「毎朝シャワーしていてとても清潔だから大丈夫。」

「人に対するおもいやり」

 手を清める行為は他人に対する思いやりであり、古来からの文化・道徳であると思います。古来より人は便所(トイレ)は病の元があり、穢れ(ケガレ)の場所です。それゆえ生活の重要な場でありながら忌み嫌う場でした。そのため、用足し後、手を清め人に穢れを伝えないようにしたのでしょう。人々が気持ち良く生きる知恵であり習慣でした。そういった昔からの知恵を無視し、自分が綺麗であればそれで良いと言う人が増えていて、とても気持ちが悪いことです。

「おもいやりが減ると社会がすさむ」

 手を清める行為など、小さな思いやりが減ると、やがて社会が荒む(すさむ)ことは、ローマ史など歴史的にも、現在のニューヨークでも実証されています。過去の日本、江戸時代を中心にこの心の育成をした藩が沢山ありました。これが今の日本文化に大きく影響しています。例にすると会津藩の「什の掟」や薩摩藩の「郷中」があります。人としてのおもいやりが確立され、既に江戸時代日本は世界に先駆け、非常に暮らしやすい環境でありました。

「什の掟」

 什の掟を記載します。
一、年長者の言うことに背いてはなりませぬ
二、年長者には御辞儀をしなければなりませぬ
三、虚言をいふ事はなりませぬ
四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
五、弱い者をいぢめてはなりませぬ
六、戸外で物を食べてはなりませぬ
少々割愛しますが、最後に、十、「ならぬことはなりませぬ」

「ならぬものはならぬ」

 まずは、手を洗わない人に教えたい。自分が綺麗とかは関係ない。論議不要。「ならぬものはならぬ」。そして、このことを子供に教えていく必要を強く感じています。「トイレの後に手を洗わない行為」だけではなく、「集団でいじめをする行為」「電車でモノを食べる行為」は理由を問うまでもなく人としてしてはならないことと教えていく、強い教育意志が必要です。会津藩の「什の掟」や薩摩藩の「郷中」は社会で生きるうえで大切なことを示しています。法や理屈ではない。「ならぬものはならぬ」と。

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Fukushima後

当たり前からの脱却

「Fukushima前」

 日々は当たり前のように繰り返され、生活の安全は当然保証されていると皆が信じていた。が、

「明日生きているはずの人が沢山亡くなった」

 3月11日、東日本大震災で、まさかの死を迎えた方が数多くいた。明日が来ることは誰も保証されていない。肌身で感じた現実だ。

「Fukushima後」

 明日やろう、はやらないことと同じ。今日一日で出来ることはやっておく。一日一生と考え、出来うる限り今日のことはやっておこう。これであなたが良い方向になる。やがて、日本は変わる。

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