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2007年10月

スペイン・中世の街Toledo(トレド)本編その2:文化考察

スペイン・中世の街Toledo(トレド)本編その2:文化考察(朝礼スピーチネタ)

 文化では12世紀以降トレドでの翻訳がとても有名です。ギリシア・ローマの文献がキリスト教圏では散逸し、法律や学問体系が崩壊していましたが、当時イスラム圏にギリシア・ローマの文献がアラビア語として残っていました。トレドではイスラム教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒が同居していた街であったので、皆で共同しラテン語に翻訳したのです。翻訳した文献は12世紀以降、ヨーロッパのルネサンスに大きな刺激を与えました。この成果により、スペインはヨーロパでの文化の中心になっていきました。

 絵画では15世紀ギリシア人の画家エル・グレコがトレドに住み、多くの作品を残しています。
以下他の文献より
「エル・グレコ(El Greco, 1541年 - 1614年4月7日)は、現ギリシャ領のクレタ島出身の画家。本名はドメニコス・テオトコプーロスで、一般に知られるエル・グレコの名はスペイン語で「ギリシャ人」を意味する通称である。彼の宗教画はキリスト教布教に多いに役立った。よくも悪くのユダヤ・アラブの文化はスペインから駆逐されていった手助けとなった。

当時ヴェネツィア共和国の支配下にあったクレタ島で初めイコンを学び、のちにイタリアのヴェネツィア、ローマに渡ってティツィアーノに師事し、ヴェネツィア派絵画を学んだ。1577年、36歳でスペインのトレドに渡り、没するまでスペインで宮廷画家として活躍した。

エル・グレコの絵画はマニエリスム、バロック様式に分類される。全体的に暗い画面、縦に長く伸びた構図、複雑なポーズを取る人体などが特徴的で、彼の死後は長らく高く評価されなかったが19世紀に再評価を受け、パブロ・ピカソやジャクソン・ポロックなど20世紀の芸術家にも影響を与えたという。1614年に没するまで数々の傑作を残した。

19世紀以降にエル・グレコは重要な画家として再発見され、現在ではトレドとエル・グレコは結び付けられて語られるようになった。」

少々ピンボケですが、トレド美術館にあるグレコの部屋での有名な絵画です。


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 文学では有名な「ドン・キホーテ」作者セルバンテスが1571年のレパントの海戦に参戦していました。セルバンテスはレパントの海戦で左腕が不自由になった後も従軍し、4年後スペイン帰還途中、海賊に襲われ捕虜となり、アルジェでタリ・マミという人物に買われました。このときフェリペ二世の異母弟ドン・ファン・デ・アウストゥリアからフェリペ二世への推薦状を持っていたため、巨額の身代金を課され、5年間の奴隷生活を送りました。そしてキリスト教の慈善団体によって危機一髪で身請けされスペインに戻りました。
 1585年に父親がなくなった後、スペイン無敵艦隊の食料調達係として、食料を徴発するが、教会から強引に徴発し続けたため投獄され、職を失いました。その後も徴税吏の仕事に就いていましたが、税金を預けた銀行が破産、負債として負うこととなり、税金が払えず再度投獄されたのです。セルバンテスは「ドン・キホーテ」内で、「ドン・キホーテ」は投獄中の構想と軽く記載しています。1616年、本当に波瀾に満ちた人生を終えています。

 この巨匠2名が世を去ったのち、多様性を失なったトレドは文化的に穏やかな衰退を迎え現在に至っているようです。


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スペイン・中世の街Toledo(トレド)本編

スペイン・中世の街Toledo(トレド)本編;歴史考察(朝礼スピーチネタ)

 ローマ時代の都市であったトレドはローマ崩壊後、西ゴード王国の首都として、開かれたようです。
その西ゴード王国にアラブ軍がジブラルタル海峡を渡って進入したのが711年、その後順次イスラムが進入し755年コルトバを首都とするスペイン・ウマイヤ朝が成立しました。トレドは首都でなくなり、イスラム世界となったのです。1031年スペイン・ウマイヤ朝が消滅すると、30にも上る小王国が独立しました。これより、キリスト教側で「国土回復戦争;レコンキスタ」と呼んでいる情勢となり、イスラム王国をイベリア半島から押し出していく形勢となりました。

 
 1085年キリスト教国のアルフォンソ6世がトレドを奪回し、トレドはアラブ世界からキリスト世界に移ったのです。入城当時、アルフォンソ6世はキリスト教、イスラム教、ユダヤ教の肯定と名乗ったようです。これより、トレドはキリスト世界の首都として歴史に名を残します。1248年にコルトバがキリスト側に陥落するまでは、戦闘最前線の都市でありました。

 1474年パリャドリッド教会でトレド大司教のもと、カスティーリャ女王イサベル1世とアラゴン王国フェルディナント2世の結婚式が取り行われ、キリスト教圏はグラナダ王国(イスラム圏)を残し、スペインは半島を押さえたのであります。このとき、カスティーリャ王国の言葉が今のスペイン語となりました。なお歴史的な事件として1492年10月12日コロンブスがアメリカ大陸に到着しています。同年1492年にグラナダが陥落し、イスラムはイベリア半島から追い出されました。

 カスティーリャ女王イサベル1世とアラゴン王国フェルディナント2世の娘の1人がファナ1世です。その旦那がハプスブルグ家のフィリップ(スペイン名フェリペ)と呼ばれ、後のフェリペ1世となります。そしてこの息子がカルロス1世、その息子がフェリペ2世です。フェリペ2世の治世、1561年にスペイン首都をトレドからマドリッドに遷都しました。

 話は前後しますが、1502年フェルディナント2世は勅令を出し、イスラム教徒に対してキリスト改宗か追放か二者選択を迫りました。これより、フェリペ2世になる間にイスラムを完全に消し去ったのです。このとき、数世紀にわたり、世界の文化と学問の中心で、美術・科学・学術の揺籃の地アンダルシアは不毛の地と化しました。多くの文化人が海外に去ったのです。ここにスペインの文化退化が始まったと考えます。

 これより先1391年にはユダヤ教徒迫害があり、キリスト教への改宗を迫っています。このときに、ユダヤ人は多くは移動し、残ったものはキリスト教(隠れユダヤ人)となりました。この後も隠れユダヤを摘発し続け、イスラム同様スペインから追い出していったのです。金融の才能が他国に移ったのです。

 1571年10月7日、ギリシャ沖レパントにてトルコ軍と海戦を行い、フェリペ2世の異母弟ドン・ファン・デ・アストゥリアがみごと勝ったのであります。この後、スペインは無敵艦隊の名を手中にし、大西洋を我庭として、繁栄を謳歌しました。しかし、寛容性を失なった結果、異端の排除で多様性を失い、このときを頂点にしてやがて世界帝国は二流国家へと進んでいくことになるのです。塩野七生先生が述べていたことですが、ローマの衰退は「寛容;クレメンタス」を失ったことにある。と。

 トレドから首都が移った時期がスペインの黄金期であったと私は思います。現在のトレドはカスティーリャ・ラ・マンチャ州の州都となっています。次はこの当時の文化を考えて見たいと思います。


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スペイン・中世の街Toledo(トレド)導入編

スペイン・中世の街Toledo(トレド)導入編(朝礼スピーチネタ)

今週、8,9日と中世の街Toledo(トレド)に行ってきました。

 マドリッドから南へ70キロのところに中世の町トレドがあります。人口は6万人。タホ川に包まれるようにしてたつ古郁トレドを訪れると、しっとりと落ち着いた雰囲気が旅人の疲れをいやします。町の美観を大事にする政策がとられたため、町全体が中世そのままの姿で保存されているうえ、新しい建物でも、周囲の環境に調和するよう工夫がなされているのがうかがえます。画家グレコは16世紀にトレドに魅せられ、ここに住みつきましたが、彼が描いた「トレド景観」は、今日のトレドの景観と比べてみてもあまり違わないとの定評があります。歴史的には、ローマ人の支配のあと、6世紀に西ゴート族が入って来て、トレドは西ゴート王国の首都として栄えました。8世紀にアラブ旋風がまき上ると同時に西ゴートは駆逐され、11世紀までアラブ人が治めました。(以上ヴィキペディアから)

 トレドは日本では京都に当たる都市で、世界遺産に登録されており、中世スペインの首都らしく、要塞都市となっています。

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国土回復戦争の勝利のすえ、キリスト教徒はトレドをスペインの首都に決定、1561年フェリペ2世がマドリッドへ遷都するまで常に脚光を浴びてきました。

 レストラン「Adolfo」の方にワインバー見学に連れていってもらった時の写真です。地下に広がっているそのワイン蔵は9世紀のアラブの倉庫と水槽を利用していました。

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その当時、街の周囲を囲むタホ川からは高度差90mが課題で、水対策が重要であったらしく、倉庫には雨水を溜め込み渇水に備える対策の工夫が見られました。この倉庫にもアラブ時代の篭城用水タンクが地下深くに有り、ワインの湿度調整の役に立っていました。

 トレドの街の中心にはトレド大聖堂(Cathedral of Toledo)があります。トレド大聖堂はサンタ・イグレッシア教会の聖堂として13世紀に建造され、そのゴシック様式の建物はブールジュの大聖堂を模しているとのことです。 街のあちこちから塔が見え、独特の雰囲気があります。


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世界帝国であったスペインは1571年のレパント海戦の絶頂期から現在に至る経緯を今後考察します。
今回はトレド遠景の朝焼け(AM8:30撮影)を締めに使いました。

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3文字英語の功罪について

3文字英語の功罪について(朝礼スピーチネタ)

 最近仕事や生活において3文字英語が入り込んでいます。今回はよく耳にする言葉を列挙してみました。相当生活に入っている3文字英語ですが、正しく意味を理解できない場合もあると思います。よって併せて3文字英語の翻訳をしてみました。
ISO;International Organization for Standardization;国際標準化機構
IPO;Initial Public Offering;株式公開
CSR;Corporate Social Responsibility;企業の社会的責任
CRM;Customer Relationship Management;顧客関係管理
RFM;Recency Frequency Monetary;購買行動・履歴による顧客分析手法
FFP;Frequency Flyers Program;航空会社 顧客囲い込み戦略のマイレージ制度
FSP;Frequency Shoppers Program;小売・サービス業界における顧客優待プログラム
ASP;Application Service Provider;外部サーバー運用のソフトの期間貸し出し
このようにASPなど、日本語に訳するに困難を伴うものも出てきました。

 私が関わる業界用語の代表格は、
POS;Point Of Sale;販売時情報管理
CCT;Credit Center Turminal;クレジットカード決済端末
これらを日々利用し仕事をしています。金融を中心にして3文字英語は多用されていますが、外部からは何を意味するのかがまったく分からない言葉ばかりです。もともと業界用語はなにも考えず日本に概念を持ち込んだので、使っている当人が正確な意味を知らないで居ます。今後多用する業界では業務発展を妨げると思います。

 じつは3文字英語は自分自身、よく順番や近い言葉を無意識に話して、間違った用語を使い、会話で混乱をきたしています。さらに相手が正しく理解しているか危ういと日々感じています。違う意味で理解して会話が成立していることもありました。急ぎ漢字での再統一をすることを提唱します。

 言葉の定着については疑わしいところです。定着しなかった過去代表的なものに、
CI;Corporate Identity;企業理念の整理ならびに認知。EQ;Emotional Quotient;情動指数・心の指数
この2文字言葉は一時大変流行しましたが、現在は死語です。3文字も心に響きにくいので、今後言葉として「CSR」が定着するか疑わしいと見ています。

 反対に、通常の言葉として定着した言葉は沢山あります。ただ、本来の英語の訳と異なる意味が流通し、市民権を得た言葉が多々あります。たとえば、スマート。本来とても前向きな「心が賢い、洗練された」ですが、日本語では細身の意味があります。スマートの反対語はナイーブ「頭の鈍い」です。前向きな訳でも「天真爛漫」ですが、日本では繊細・高感性の前向きな意味があります。英語圏で私はナイーブと言ったら、「あほか」と思われるでしょう。

 現在、和製英語が氾濫し、完全に定着した言葉が多数あります。例としては、ガソリンスタンド、ゲームセンター、ゴールデンウィーク、コンセント 、サインペン 、ジェンダーフリー 、スキンシップ、トレーニングパンツ、フリーダイヤル、マイホーム 、ワイシャツ、ワンパターン 。英語とほど遠い和製英語も多々あります。マイナスイオン、ホテルバイキング、セメダイン があります。

 ここまでくると、英語教育の障害になっていると思います。今後生活に入ってくる海外生まれの新概念が3文字英語として幅を利かすことでしょう。そのため、3文字英語の公式文書使用を制限し、日本語保護を提唱します。
せめて、自分の会社の文書は綺麗な漢字表記を心がけようと思います。


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歴史がつながっていない国、中国

歴史がつながっていない国、中国;国民が政府を信用できない文化。(朝礼スピーチネタ)

 よく「中国四千年の歴史」と言う言葉を耳にします。この表現について、中国は連続していない異なった文化・国であると考えています。現在の中国版図(版図;領土ではなく、支配権が及ぶ人がいるところ)を持つ中国歴代王朝で確実な漢民族国家は、夏、漢、明でしょう。唐、元、清などは漢字名を使っているだけの明らかな他民族国家でした。中国と言ってもモンゴル帝国であったり、満州帝国であったりしました。さらに辛亥革命以前は領土の考えがなく、版図であったのでどこまでが中国であったか定かではありません。

 今ある中華人民共和国は過去の中国とはつながりがない、共産党支配の新興国といえます。建国60年も経過していません。国が継続しない概念は日本人にはわかりにくい点ではありますが、昔から中国は易姓革命と言う概念を持ち、徳を持った人間の一族が一定期間王朝を維持し国とする文化でした。徳が途切れれば国家が変わる文化です。つまり為政者の徳=人気がなくなれば、その徳によって国を司る一族は排除され、国が変わっててしまったのです。

 易姓革命とは前王朝が徳が下がる、つまり人気がなくなると、天命(天から与えられた使命)を失ない、革命(天の命令が革(あらた)まる)が興り、新しい天命が授新しい王朝に変わることなのです。このような考えのため、新たに成立した王朝にとっては易姓革命の思想はとても都合が良いことなのです。そのため新しく成立した王朝は、前王朝の天命が失ったことを世間に知らせ、広く通知するため、前王朝の歴史を必ず再編纂しました。そのため、王朝が変わるたびに過去の歴史を否定し、焚書(本を焼くこと)や文化破壊をしてきました。

 現在の中国に行ってみればわかりますが、歴史的建造物は壊しきれなかった万里の長城や清帝国の遺物ぐらいです。一部埋没していて壊されず発掘された兵馬俑のような遺跡がありますが、生活に溶け込んで使われている文化遺産は見当たりません。

 人の生活に根ざす文化が途切れた結果、文化的遺産は少なく、贔屓目に見ても四千年の歴史はオーバートークです。中華思想は残ったが、途切れてなくなった文明との差は少ないです。今明らかに国民に残っていると思われる中国文化は政府が何度も変わり、いつも方針変更に悩まされた国民がいて、国民は政府を信用できない文化と言えます。

 個人の資産所有を認めない共産党国家が「文化大革命」を経て、江沢民氏が個人所有を容認したことから大財閥を持つ世界有数の経済大国になったことも大方針の変更の一例です。残された農民は不信感ばかりでしょう。

 昨今の食品安全問題等はこの「国民が政府を信用できない文化」が原因であると考えています。国を信用出来ないから、人を信用しにくい。そのため、自分も信用されているとは考えずらいのでしょう。だから、「ダンボール肉マン」を作り、人に食べ物として供給出来るのです。

 今中国文化圏は1つにまとめられていますが、ソ連邦のような崩壊もありうると思います。相当なバブルになっており、個人はいかなる手を使ってもお金をためることをやめないでしょう。相当根深い文化問題なので、食品安全問題は一朝一夕で改善されるとは思いません。

 ところで、面白いことに過去の中国の歴史物をもっとも綺麗に保管した国が日本であります。正倉院がもっとも有名な事例です。そして日本は唐の時代に輸入した文明(道具)を用い、独自の堂々たる独自文化を創りました。日本の天皇制は同一王朝が126代にわたり続いた文化の基幹です。日本人が日本を信ずる大きな要素です。「国民が政府を信用できる文化」であり、とてもありがたいことです。福田首相にはこの信用をしっかりと守って欲しいと願います。

 今、第2次世界大戦の相手政府ではない、中華人民共和国政府が歴史問題を持ち出し、日本を揺さぶっている矛盾も併せて皆に知って欲しいと願います。


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